〜WakuWaku体験くらぶへのコメント〜

えっと
《事業を行なうに至った背景とニーズ》
という文章についてのコメントはどこに書いたらいいのかな?

 以下、ちょっと書き込みますが、場所が不適切なら移動または削除してください。
まず冒頭から引用します。

・ 障害児の放課後及び夏休みなどの学校長期休暇を安心して過ごせる公的サービス機関の不足
・ 母子密着の日常からの分離・子どもの自立促進
・ 障害児をかかえる家族の孤立状態防止
・ 地域の人々の障害児(家族)理解
・ 保護者の心身の負担の軽減・就労支援
・ 保護者以外の家族(祖父母や兄弟姉妹)の心身の負担の軽減
 心身にハンディを持つ子を授かった私達母親は我が子が生まれてから、これまで、その困難な日常生活の中で、強い勇気と深い愛情を持って、24時間の子育てをしています。

 いったん、ここまでで感じたことをメモしてもいいですか?
 それは父親はどこへ行ったのかな?ということについてです。「私達母親は」という主語がこのあともまだなんどか続くのですが、そのとき父親の位置づけはどこにあるのでしょうか? 
 ニーズについてはよくわかるのですが、背景の説明の過・でそこにちょっとひっかかりを覚えました。
 母親、保護者、祖父母、兄弟姉妹という言葉があり、父親という言葉は一度も登場しないのですが、・の5番目と・の6番目の保護者という言葉には両親という意味合いがこめてあるのでしょうか? すると、・の5番目の就労支援は、父親母親両者の就労支援を指しますか? 
 また、父子の家庭に障害のある子がいる場合については、この文章はどのような整合性をもつでしょうか?
 
 なんとなく文章全体の中で、父親が(「保護者」という言葉に一応含まれるには含まれるけど)ほとんど透明な存在になっているような印象を受けました。
 全体的な趣旨はよく伝わりましたが、その父親の透明性について、なんでこれほどまでに透明に扱われることになったのか?というひっかかりが、僕の中に生まれました。
 たとえば、仕事が忙しすぎるので何も期待できないなら、そういう社会的存在としてでもいいからなんらかの形で登場したら、それはそれで位置が見えるのですが、知らず知らずいつのまにか透明な存在にされてしまっている感じがしました。

 だから今すぐどうということはないのですが、この文章が今後さらに推敲されていく予定だとしたら、その点について心の片隅にでも課題として意識していただけたら、ものごとの全体像についてもっと明確で豊かな視野(思・?)が得られるのではないかと思いました。
 以上です。失礼しました。

Posted by あび at 2006年08月20日 23:29


あびさん、コメント、どうもありがとう!

一般的に、障害児の父親と健常児の父親と比べたら、障害児の父親って、少しハンディはあるかもしれないけど、そんなに生活スタイルは変わらないと思うのです。

ところが、障害児の母親と健常児の母親との生活スタイルは、もうそれはそれはめちゃくちゃ違って、
母親自身が障害者でないかな?と思うほどの社会の中でハンディキャップを背負っているような気がするのです。(実際に障害のある人にとってみれば、全然比べ物にはならないことだと叱られるかもしれませんが。)

もちろん、母親と父親の役割がどこの家庭も同じというわけでもなく、いろんな家庭があるのだけど、
それを言い出したら、多分、もっともっと多くの説明を私はしたくなるのです。

実際に、仕事に就けずに困っているお母さん達の声がたっぷりあって、困っている父親の声を、私はまだ聞いたことがないのです。
いえ、きっとそんな声はあると思うのですよ。
あると思うけど、自分が知らないことには、かけないのです。

だから、私達母親の立場として、記した内容になっています。私達母親の立場としてのニーズを訴えた内容にあえてしています。


Posted by イムニー at 2006年08月24日 08:55

どうも。
ええっと、僕が言いたかったのは、困っている父親のニーズもあるのではないかということではないです。すくなくともそこにポイントがあったのではないです。でも、困った父親がなぜ出現しないで【すむ】のか?ということについては、ちょっと何か言っていることになるかもしれません。
僕が言いたかったのは、母親が透明な父親を【素通りして】、社会的なアピールをしているけど、その前に父親はどこに行ったのか、姿が見えないということです。
まさしく上に書いておられるように、なぜ障害児の親となったとき、母親だけが生活を激変させることになるのか。その点についての疑問は浮上してこないのかということなのです。
そこを素通りした社会的アピールに感じるので、その分だけ、世界観の全体像に空洞ができているような感じがするということです。

Posted by あび at 2006年08月24日 20:43


あびさん、一緒に考えてくださって、どうもありがとうございます!

そうですねー。
父親については、例えばうちの家庭の場合であれば、私から見れば子育てにめちゃくちゃ協力的です。
夜中に子供の夜泣きや夜遊び(?)おねしょなどで、起され、私と一緒に対応してくれて、そのまま朝になり、出勤していく・・・
そんな日が連日繰り返され、しかも彼も残業続きの時には、私としても、彼の体がとても心配。彼にも、これ以上、負担にならなければいいな、といつも思う。
けれど、彼は彼で、私の体を案じてくれているし、今、自分が倒れたら・・・と考えると、私自身、無理はできない、そうそう倒れるわけにはいかない、そんな気持ちでの子育てになっています。

だから、ほんとのところ、24時間の子育てを母親だけがしているわけではなく、やはり父親も一緒に行なっているのです。
なので、『私達母親は、』という出だしの文章は、『私達保護者は、』とすべきかもしれない、と悩みはしたのですが、やはり母親だけが障害児を生んだ時に、生活が激変してしまうことを強調したかったですね。
父子家庭については、多分、障害児でなくとも、大変な状況ではないか?と私自身は想像しました。

で、【母親だけが生活を激変させることになるのか。その点についての疑問は浮上してこないのかということなのです】
についてですが、母親は激変して、父親は激変まではいかない、というのは、今の私にはあまりどうでもいいことかもしれません。

それよりも、自分がたまたま障害児の母親になったけれど、きっと健常児だけの母親だったら、きっとこういう生活スタイルだったにちがいない、というイメージがあります。

学校の送迎に対しても、私は行なわずに済んでいたでしょうし。
そして、子供が中学生にもなれば、きっと毎日でなくとも夕方までゆっくり出歩いて家に帰ってきていたでしょう。
けれど、もちろん、今は、子供が下校時には、迎えにもいかなければいけない。
現在成人し、作業所に通ってられるお子さんを持つお母さん達もまた、その場所までの送迎をされている方はうじゃうじゃいらっしゃいます。
けれど、通える作業所があるだけ、とても幸せなことです。
自宅で、成人したお子さんの面倒をずっとみてらっしゃるお母さんもいらっしゃいます。
父子家庭のお父さんが、そうである、とは私は聞いたことはないし。

私自身は、なぜ自分の子が障害児だというだけで、これほどまでに自由が奪われているのだろう?
ずっとその疑問しか持てなかったです。
母親と父親が違おうが同じであろうが、私自身が不自由していることをなんとかしてもらいたい!という気持ちしかないです。

さて、これで大体のことは伝わりますか?
それじゃあ、この中のこの部分をきちんと盛り込んだ方がいいやん!とかありますか?

どんどんツッコンで、教えてくださいねー。

Posted by イムニー at 2006年08月25日 01:02


お父さんの姿が見えない、とのあびさんのコメント、確かに。本当にそうだと思います。(大変遅れて出てきたので、書いてももう読んでもらえないかなー?) 

一つには、子育ては主に殆どの家庭で母親の役割であるということで、それで、その子に課題が多い場合、その負荷がすべて母にかかっていく、ということなのだと思います。

イムニーさんのおうちでは、夫さんが子育てに協力的、とのこと、とてもすばらしいですね。

障害を持つもたないに限らず、子育てに課題があり、母がしんどいと感じるとき、その殆どすべての場合は、子どもの父親が妨害的であったり、母親の非を責めたりと、非協力の態度を示すときなのだそうです。

弱いものに重荷が負わされる、ということです。

子どもの父親たる夫がキャパが大きくて子育てに協力できるかできないか、ということは、個人的な問題でありますが、でも、その背景には、「男は仕事でがんばればいい。仕事以外で神経は使わず、会社の歯車となり、社会のコマとなり、余分なことを考えず、生産性を高く、モノとして、がんばって働きなさい」というような会社社会の要請があるのではないでしょうか。

人と人とのかかわりを大切に考えれば、生産性は少なくとも一時的には落ちます。

それが許せない社会。モノとして、企業戦士として、生きよ。余分なことは考えるな。働け! 働けば報酬が得られるから、それで家族を養える。

役割分担して、心をなくして、男性は人としての機能を抹消され、能力を消費されるていく社会。

そんなことが背景にあって、「男は会社。家庭は妻の責任」と、課題の多い子どもの子育てから父親が逃れられる仕組みになっているのでは? たまたまキャパの大きな男性は、妻のよき協力者となれる、というそれだけのことなのでは? 「うちのパパは、キャパが小さいのかなー。子育ては母の責任、子どもができないのはお前の取組みが不足なせい、と私が責められて辛い」というような悩みは、本当は個人的な問題ではないのでは? 男を父親にさせない、会社の社畜にしてしまうという、現代日本の社会的な問題なのではないでしょうか?  

というようなことをつらつらと考えてしまいました。あびさんの疑問に対する何かの答えになったでしょうか。

けれど、父親が協力的でも非協力的でも、世間一般の父親は毎日フルタイムで勤務している人が殆どです。
ですから、子ども達の放課後や夏休みに、父親は不在です。そんな時には、母親がひとりでがんばらないといけません。
この責任の重さ、そして、実際母親が負う精神的・物理的な負担はとても大きなものです。

また、働きたいと思う母親も、障害児がいるということで働くことができません。それどころか、生活上どうしても働かざる得ない家庭ですら、障害の子がいるために、母親は仕事に就くことができません。そんな現状があるのです。

もちろん、これは、親への負担、という問題です。それにプラスして、豊かな生活を子どもに保障したいという親として当然の願いがあります。

そんなことを、現実に一番大きな負担を負っている母親たちが、「私が直面している一番大きな問題」としてとりあげた、ということなのです。だから、お母さんの姿ばかりが出ている、ということになっているのだとも思います。

あびさんのお話に答えていえば、ごくごく少数ですが、お母さんがとてもしんどくて、お父さんが一手に障害児のケアやサポートと仕事も行っている、というようなお話も聞いたことがあります。自営業であったり専門的な仕事で時間に自由のきく方の場合、こういうこと(稼いで、なおかつ子育てや家事も行うということ)が可能だそうです。これは、お母さんのキャパが小さくて、お父さんのキャパが大きく、なおかつそういうことが可能な職業にお父さんがついている場合、ということですね。ひとりおや家庭(父親のみ)の場合も、不仲の家庭の場合も、仲は悪くないけどお母さんがどうしてもその子のことはダメなのだ、という場合も聞いています。 

Posted by アッキー at 2006年09月05日 18:00


 ども。
 障害があるないに限らず(あればなおのこと)、子どもを取り巻くすべての人が、子どもを見ている状態がいいのではないかと僕は思います。
 僕が最初の書き込みをすこしためらったのは、僕の言っていることが、「【まず】父親が協力するべき。それから社会的要請をするべき」と言っているようにとられると困るなあということがありました。
 いずれにしろ、家族以外の子どもを取り巻く人々や行政などの担うものは大きいと思うからです。
 そこで総合的に考えると、こういうモデルはどうでしょうか。
 無数の座標軸があるが、子どもがその原点0に存在するのが理想である・・・。
 今仮りに両親の軸と、家族と社会の軸だけをとって考えてみよう。
 X軸の左に母親、右に父親。Y軸の上に社会、下に家族が存在するとする。子どもは原点0にいるのが、理想だが、現状としてはX軸では左に、Y軸では下に傾いていってしまう傾向がある。
 つまり、2つの座標軸で区切られた4つの象限で見ると、左下の象限に子どもが封じ込められる傾向がある。
 そこで子どもを限りなく原点0に近づけようといいう思想や、動き、ダンス(?)が、必要になってくるように思う。
 で、子どもをX軸ではもっと右へ、Y軸ではもっと上へという二方向の思想、動き、ダンスが必要となってくるわけだ。そのとき、大事なことはその二方向の思想、動き、ダンスは、互いに矛盾するものではなく、どこまでも両方同時に必要とされるものであるということではないでしょうか。
 子どもを左下の母親と家族に封じ込められた状態から、原点0へと近づけるという意味では、その二方向の思想、動き、ダンスは、あくまでも補い合うものであって、けっして足を引っ張り合うものではないのである。
 とまあ、思想モデルとしては、そういうことだと僕は言いたい。
 けれども、そこはほれ、現実にはさまざまな個のさまざまな思惑の入り乱れるこの世界。
 絶妙のダンスを踊るのは、なかなかに困難なもので、ヘタなことを言うと、かえって足を踏んだり、踏まれたり、そりゃあまあ、大変なもんでござんしょう!
 一応、図の素描まで。失礼しました。

Posted by あび at 2006年09月06日 00:11


こんにちは、星野です。
柴崎さんとともに遊びに行かせていただいて、ありがとうございました。
とても楽しく幸せなひとときを過ごさせていただきました。

24日以来、なにかを言わなきゃ、なにかを伝えなきゃ、と思いつつ、日を過ごしていました。
時間ばかりが過ぎて、うまい言葉が見つからないし・・・
なにも言わないほうがいいのかもしれないけれど。
言わなきゃ、気持ちは伝わらないので。

Waku Waku体験くらぶを立ち上げたイムニー(他の方々もかかわっていらっしゃるのでしょうが、私は彼女しか知らないので)の思い、神奈川県から、ほいっ!ときてくださった柴崎さんの思い、・・・わたしなどには、はかりしれない人としての大きさ、深さに、ただ、ただ頭を垂れるのみです。

まずは、柴崎さん、本当にありがとうございました。
わたしも一緒にわらべうたを届けさせていただいたた側の人間なので、このブログの中で、私が柴崎さんにお礼をいうことで、、自分たちの行為が少しでも押しつけがましいものにとらえられたら、嫌だなぁ〜と思って、躊躇しながら、書いているのですが。
柴崎さんと私は、数えるほどしかお会いしたことがないのです。
だから、師匠ができそこないの弟子の助っ人にきてくださったわけではないのです。
気持ちひとつで来てくださって、子どもたちも大人たちもひとつに繋がってわらべうたで遊ぶひとときをくださったのです。
だから、素直な気持ちで。
本当にありがとうございました。

その柴崎さんが帰られる前に、おっしゃいました。
「この夏の間、毎日、積み上げられてきた場に、わらべうたでわたし達もいっしょにのっからせていただいて、かえがたい体験をさせていただいて、ほんとうに感謝、感謝!!」
本当にそうだと思います。
毎日、毎日、子どもさん達とスタッフの皆さんが大笑いしながらも、悪戦苦闘して積み上げられてきた場の力のおかげで、この日の楽しさが生まれたのだと思います。
ありがとうございました。

さて、こんなに素晴らしい場が、夏休み限りなのですね。
あまりにも、あまりにも、もったいない!!
イムニーが限界なのは、わかります。
限界はとっくに越えていますよね。
車の事故も起こるべくして、起こった(起こした)、とわたしは思います。
イムニーの限界はお嬢さんの限界でもあり、ご家族の限界でも。
重度の障害者のお嬢さんをもつあなた自身が、なぜ立ち上がらなければならなかったのか。
あなたが立ち続けなければ、取り組みが終息してしまうのは、なぜなのか。
同じ市に住む健康な一人の大人として、とても申し訳ない気がしています。

柴崎さんが、終了後、おっしゃいました。
「続けていけば、わらべうたや絵本だけじゃなくて、おはなし(素語り)も、すぐに届けられるようになるわよね」
わたしも、そう思いました。「続けていけば」
わたしには、柴崎さんのような度量も力量もないけれど、子どもさん達とかかわらせていただけるだけの時間はあるのだけれど。
Waku Wakuを継いでいく手だてはないのかなぁ、と思うばかりです。

長くなりましたが、あとひとつ。
今回、わらべうたに参加してくださった大人のみなさま、身近な子どもさんと、ぜひ、わらべうたで遊んでください。
「しっかり見つめて
しっかりふれあって
しっかり抱きしめて
心のこもった声で」
柴崎さんのわらべうたはすごいです。でも、母親の肉声にはかなわないと思います。

Posted by ☆hosi☆ at 2006年08月28日 22:24


星野さん、お返事、大変遅くなり、ごめんなさい。
たくさんのコメントを、ほんとにどうもありがとう!

私もWakuWakuが、このままなくなってしまうのは、正直、残念だなぁ〜、もったいないなぁ〜と思っています。
子ども達、なかなか楽しんでもらえたのです。こちらも、思ってた以上に、楽しかったのです。

かといって、私は仕事がしたい!と思ってるので、このまま、この活動を続けてしまえば、より一層、私自身の時間がなくなってしまいます。
そして、娘も、他の子に、すっかり焼きもちやいて、家の中で、色々と大変なことがおこっています。
そういうわけで、とりあえずは、今回は終了。
でも、また、単発で何かをしてもいいし、その時は、また、ぜひ、ご協力をよろしくお願いします。m(__)m

それよりも、23日だけでなく、何度もお越しくださり、本当にありがとうございました。
手作りマドレーヌもありがとうございました。

それから、最後のコメント
【柴崎さんのわらべうたはすごいです。
 でも、母親の肉声にはかなわないと思います。】

そうですね。
ほんとだわ。
子ども達にとったら、柴崎さんがどんなにステキな人でも、やっぱり自分のお母さんがナンバーワンなんだもんね。

また、色々教えてくださいね〜

Posted by イムニー at 2006年09月04日 16:29